自分の中の問題を問題として認識しなくなると心を開放できるようになる。
最近はちょっとWEB系のことばかり書いていたのでまた自分語りでもしようか。
さて何を書こうかなあ。昨日の記事は少しばかり偉そうなことを書いたがこういう風に自分が書くのは難しいものだ。
さっき親から連絡がきたので改めて家族のことを書こうか。このブログでは何回か登場した俺の家族はとても良い人で伝わっていると思う。良い話しだけを書けばそうなるのも当然だ。
もちろん良い人である。父親はもう亡くなっているが他の家族とは今では普通に仲が良い。だがそこまでには色々なことがあったんだなあ。マーベラスなことも。まあ過去に何があったとしても今は俺の捉え方が変わった。なんでそうなったかを話していこうかなあ。
まずは親父。家に帰ってこないというあの親父だ。
実は親父には愛人がいたのだ。俺も会ったことがある。仕事が忙しいのもあったと思うが親父はそちらの家に帰っていたというのも分かっていた。金もそっちにつぎ込んでいたのだ。
ときには給料を落としたと言ってまったく家に金をいれないこともあった。何度もだ。俺のお年玉なんかは全て使われてしまった。
家に帰ってくるようになったら今度は酒を飲み続け暴れた。母親とは毎日ケンカ。俺の家は団地の2K。襖で仕切られた2つの部屋が繋がっている。親がケンカをしている時は逃げ場などない。常にその現場を目撃していなければいけなかった。灰皿やらなにやらが飛び交い窓は割れていた。包丁を持ち出したこともあったなあ。
時には俺や兄を殴ったこともあった。そんな親父だ。
母親は父親のせいかヒステリックになっていた。
父親が居ない時にはいつも何かに怒りタバコを吸っていた。高橋真梨子の歌を大声で歌いながら晩飯を作っていたのが印象的だ。何かあれば俺たちをすぐに引っ叩いてたなあ。
その後は宗教にハマり俺も連れていかれたことがある。変な呪文みたいなものは今でも唱えられるほど強烈に頭の中に残っている。
忘れもしない小学校の5年の時にはついにブチギレて離婚をすると言い出しなぜか俺のランドセルの中に離婚届が入っていた。私が居なくなったらこれをお父さんに渡してと言われた。その時は俺はなんだか理解していなかったが。
結果的に分かれなかったのだがヒステリックは続いた。優しい時もあったが急にキレだすあの瞬間が怖くていつも怯えていたよ。そんな母親だ。
兄は俺よりも親父に殴られたり暴力を振るわれることが多かった。そしてその発散が俺に回ってくる。いつものように兄に殴られたり蹴られたりしていた。
俺が泣いたって気にしない。俺は泣きもしなくなった。笑うことも。家で話すこともなくなった。
いつだったか木から落ちて骨折をしていたらしいのだがあまり分かっていなくて次の日に学校で急激に痛み出し骨折が判明した。もはや感覚も鈍ってしまっていたのかも知れない。
一時期流行ったエアガンで近距離から撃たれたりもした。そんな兄だ。
旅行もしたことはない。家で撮られた写真には笑顔がまったくない。何か思い出があるかといえば些細なことしかない。子どものころから変に冷静で笑顔もなく子どものような可愛さなどもなかった。近所の人にもおとなしい子どもだったと今でも認識されている。
別に不幸自慢をしたいわけではない。かわいそうな俺をアピールしてるわけでもない。もちろんマーベラスだと言ってほしいわけでもないなあ。ただただそんな家庭に育った俺だ。
それは外に出ても当然コミュニケーションもとれなくなりいじめにあい鬱やひきこもりや統合失調症にもなるだろう。こんな家庭に育っていれば当然だと思う。
というか親や兄のせいだとずっと思っていたのだ。俺はこの人達のせいで人生が真っ暗だ。こんな家庭に生まれたくなかった。お前らなんか親として生きれないなら俺を生むなよ。全部お前らのせいだ。
一度は自分のせいだが事故などにあい死ぬ寸前を迎えたことも二度ある。計三度だ。
なんで俺がこんなに苦しまなくちゃいけないんだよお…俺は誰に話すこともなくずっとそう思っていた。
早く家を出たくて働いても社会不適合者の俺には働けない。そしてひきこもる。家を出たいのにおかしな話しじゃないか?俺は不幸の星の下に生まれたと諦めるしかなかった。
まあこうして振り返ると結構心苦しいものだなあ。やっぱり胸が痛むよ。
だが今では俺は過去のことは良かったことだと捉えている。全てのことがあったからこそ今の俺が存在しているのだ。
もちろん苦しいときもあった。悲しいときもあった。しなくても良い経験もたくさんしたよ。でもその分得たものが大きかったことを俺は今感じているんだ。今までの経験が俺の成分になっている。どれか1つが欠けても駄目だったんだ。
前とは違う意味で他の人との違いを感じている。それが俺のアイデンティティとなっているんだ。
だから今では親にも兄にも感謝している。良いことも悪いことも含めてだ。前にも書いたがこれは今上手くいっていて余裕が出たからではないんだ。おかげさまで今は仕事も安定し結婚もした。しかし結果良ければということではない。どん底の時にそれを感じたんだ。家族に対しての感謝を。そしてそれが俺を大きく成長させてくれた。そして今の幸せがあるんだ。
ずっと家族のせいにして俺は不幸だと決めつけていた。何もかもが上手くいかないのは奴らのせいだと呪っていた。
だがそれが急に変わったんだ。
やつらの何が問題なんだろうかと。俺が問題と見ていることこそが問題なのだ。誰かが問題とみていることが問題なのだ。問題なんていうものは最初からないのだ。
そう思ったら全ての意識がふっ飛んだのだ。その瞬間に何かから開放された気分になって楽になった。
だからと言って問題をみないようにしたわけでもない。直視できずに見えなくなったわけでも俺の過去から消したわけでもない。逃げたわけではなくて全ての俺の経験の上に立つことができたのだ。
そしたらただただ生きてることが幸せに思えてきた。飯をくえることも。寝ることも。パソコンさえも出来ることを。それだけのことができているのに何が不幸か。というか孝も不幸も分けなくなった俺がそこにはいた。
頭が真っ白になり俺は家族への感謝が頭いっぱいになった。
生んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。いろいろ経験させてくれてありがとう。自然と涙がこぼれおちたよ。家族みんなにもそれを伝えた。泣いて上手く言えなかったけど。充分すぎるほどに伝わっていたと思う。
こうして俺は昔のことも不幸なことだと思わなくなったのだ。
どういうふうに考えたの?
と聞かれることもあるがこれは頭で考えてすることではないと思う。頭で考えるとやはり嫌だという印象が今でもあるにはある。この記事を書いていて余計にそう思った。
それじゃ何かというと物事の捉え方が変わったのだと。感覚的に心で捉えるというイメージだ。そうすると全ての見え方が変わって見える。問題が問題じゃなくなるのだ。
すると考え方も自然と変わる。今までとは違う風景が広がるのだ。夜空が青空に。真っ暗だったものが真っ白に見える。
これは俺の文章力のせいで上手く伝わらないかもしれない。
そこで1つの映画を紹介しよう。先日移動中に久しぶりに見た映画なのだが名作として名高い「グッド・ウィル・ハンティング」だ。
マット・デイモンとベン・アフレックが脚本と出演をしいる作品だ。
天才的な頭脳を持ちながら幼い頃に負ったトラウマから逃れられない一人の青年と、最愛の妻に先立たれ失意に喘ぐ心理学者との心の交流を描いたヒューマンドラマ。
少しネタバレもあるので知らずに見たい人はここは飛ばしてほしい。
もちろん俺が天才的な頭脳を持っているわけではない。
この作品で感じてほしいのは心を開かないマット・デイモン演じるウィルがロビン・ウィリアムズの演じるショーンと泣きながら抱き合うシーンだ。
ウィルは人に対してはじめて自分の心を素直に開く。そして涙が止まらなくなるのだ。
もちろん今まで2人が話したことや信頼関係があってそうなっていくのだが最後は考え方で開放していくのではないのだ。ショーンは何かが問題でウィルが心を閉ざしていたのではと思って色々な方法を考えてその解消法を探すが見つからない。
それはそうだ。ショーンはずっと問題だと思ってみていた。だがウィル自身に解決する問題などなかったのである。彼自身を本当に信頼し認めることで彼の心の開放に繋がったのではないかと俺は思っている。そしてそれはショーン自身の心の開放にも繋がるのだ。
※ショーンとウィルの開放の順序はもしかして逆かもしれない。そこはもう一度見てみたいと思う。
そのシーンこそ短いがその後からのウィルは全てが変わっている。
さっき俺が書いたように考え方も見える世界も全てが変わったのだろう。彼女の元へ向かうシーンで幸せへの恐怖もなくなっているのが分かる。
他にも良いシーンや言葉があるので見てほしいし、一度見た人も見直してほしい。NetflixやHuluなんかでも見れるらしいので是非。
俺とウィルが同じかは分からない。方法というのも少し違う。
だが二人共にある種抱えていたものから開放された。それが自分を解き放ったのだ。その抱えていたものこそが自分の蓋になっていた。その蓋をどかすことができれば誰でもどんな過去があろうとも幸せを感じることは出来るんだ。
今その心の中にある問題は本当に問題なのだろうか?問題というのは問題として認識することで問題になることがある。それを頭で考えれば考えるほどに問題になる。
だが問題として認識しなければ問題にもならないものだ。同じような問題を抱えている人も心を開放してあげてみてはどうだろうか?
もちろん簡単なことではないだろうが何かのきっかけになってくれたら嬉しく思う。
まず今日はこれぎり!