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知らざあ言って聞かせやしょう。

ただただダラダラ佇むダダイズム

もっと自由な発想でクリエイティブに己の道を拓こう。

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今日は真面目な記事を書いた。前から書こうと思っていた内容の記事が下書きにたくさん埋まってしまっていた。それらもこれから記事にしていこうと思っている。まずは、クリエイティブという言葉を聞くと、どんなことを想像するだろうか。

グラフィック、デザイン、写真、音楽、などなど。

このような感じで思い浮かぶのではないですかな?まあ一般的にいえばそれが当然のように感じると思う。日本ではこれらのモノをクリエイト(作る)する。作る人をクリエイターと呼称し、そのような人達がクリエイティブな人という意味で定着してしまっている部分もある。なので、クリエイティブと聞くと、私にはできない、才能があるっていいよね。みたいに語られたりもしてしまう。

このクリエイティブという認識は主に広告業界向けの職種の呼称なのだ。それが一般的に広まっていることで誤解された認識になってしまっている部分がある。

クリエイティブというのは身近な存在だ

本来のクリエイティブというのは創造する、独創的という意味になる。それはモノに限ったことではない。価値、考え方、発言、生き方、ビジネス、さまざまなことが全てクリエイティブな存在なのだ。

つまりなんであれ、誰でもクリエイトすることができるということだ。クリエイティブというのは特定の人に与えられた才能でも特権でもなく、全ての人に与えられている能力なのだ。 僕は絵も書けないしグラフィックも作れない。そういうことだけがクリエイティブではないということをまずは知ってほしい。本来の意味がわかればもっと自分らしくクリエイティブできるはずだ。

カタチにすればなんでも良いというわけではない

既存の真似や言われたことをやるだけでは、いわゆるオペレーターになってしまう。自ら考えることを置き去りにして目の前の与えられた作業をするということだ。もちろんそれが悪いわけではない。ただ、誰しももっとクリエイティビティを発揮することができるはずなのだが、自分にはできないと決めつけていたり諦めたりしている人は多いように思える。

創造性があるというのはオリジナリティがあるということだ。誰の真似でもなく自分で考えたこと。つまり新しい発想をカタチとして創り出すということだ。これが難しく感じるかもしれないが、常に自分で考えるようにしていけば感覚がつかめてくるようになる。何をしたいのかどうしたらいいのか、最初から外に答えを求める前に自らの心に聞いてみよう。最初の出発点はいつも自分なのだ。答えは自分で探しだすものだ。自分の中で新しい答えを模索する。自分の中にすでに答えはあるのだ。何も世にない目新しいことだけを考える必要なんてない。自分で考えた結果が他の人と同じでも構わない。自分でその答えにたどり着いたことが大事だ。そして答えが出たならばカタチにする。これがクリエイトするということだ。

とは言っても何もクリエイトできるものなんてないし……

そう思う人も多くいるだろうがブログだって例外ではない。記事を創り出しているのだからクリエイトできるはずだ。文字を、文章を、コンテンツをクリエイトしている意識をを持つだけでもかなり変わる。誰かに言われたから。誰かがやっているから。レールの上を辿っていてはクリエイティブなことはできない。オリジナリティを放棄して生み出されたものにクリエイティビティは感じない。それこそただただキーボードを打ちこなすオペレーションではないかと。つまりはオペレーターだ。ブロガーと名乗る前にブログオペレーターと名乗るべきではないか。

あなたはあなただ。それだけでも唯一無二なのだ。自分の生きてきた道がある。誰かと同じなんていうことはない。似たような人生はあっても、まったく同じ人生を歩んでいる人なんていないはずだ。今までの人生でも十分にオリジナルなのである。だから誰かになる必要なんかない。ましてや誰かと比べることなんてしなくて良い。できることできないことは今のままで良い。そんなあなたが感じたこと、考えたこと。書く言葉。そこにこそ意味や価値があるのだ。そういったことを放棄して既存の価値や意味を求めてしまうのはもったいない。オリジナルになりたいのであれば自らのオリジナリティを見失うことはない。それが分かればクリエイトすることもやりやすくなる。

自分でクリエイトしてカタチにしたものが評価される

評価というのは、生み出された結果に対して、好きな人(良い)、嫌いな人(悪い)がいる。ただそれだけだ。クリエイターはそれを受け止めればいいのだ。分かってくれないといじける気持ちも痛いほど分かるが、作品が嫌いという人や否定的な人でも、その人の中に一度受け入れているわけなのである。だからこそ出る反応なのだ。作品や意見が受け入れなかっただけであって、作り手の存在が受け入れられていないわけではない。だから悲しいことでもなんでもない。

むしろ批判があるということはそれだけ作り手の存在が認識されているということを感謝し喜ぶべきことなのだ。それすら遠ざけて小さい枠に収まるのは見ていて寂しく思う。反応の中には、暴言を吐いたりする人もいたりする。気持ちのいいものではないが、その人の中に受け入れられて存在しているからこそ消えてほしいと思われているのだ。その人が俺のことを目障りだろうが、ムカついていようが関係ない。俺はその人の中に存在できたことを喜ぶ。その人の人生のわずか数秒だとしても関われたことを光栄に思う。さらには感情を伝えてくれたことに感謝する。

みんなに認められるカタチなどこの世にはないのだ。自分がいくら正しく思った所で、隣の人にとっては正しくないことなどたくさんある。意見が分かれた所で相手を正そうとしたり認めさせたりする必要なんてない。自分だけ認められたくて相手を認めないのは傲慢だ。そんなのは自分の不安を消すための作業にすぎない。そしてそれは、より自分を苦しめることにつながることになってしまうのだ。だからといって相手を無視するわけではない。相手の考えを尊重し受け入れる。そうするだけで良いのだ。難しく考える必要はない。みんな違って当然なのだから。

クリエイティブに己の道を拓く

SEOだってマーケティングだってビジネスでもクリエイティビティが必要なのだ。そういった多くの記事を見ていると全てが後追いのことばかりが書いてある。記事を読んで自分のブログに取り入れたところで更なる後追いにしかならない。

Googleとのイタチごっこは終わらないというが、自らがその追いかけっこの輪にはいっているだけのように見える。もっと先を自分でクリエイトすれば良いのだ。流行りに乗っかったビジネスには終わりがくるのと同じだ。先を見ようとしない。

今売れるものだけを作り売ろうとする。自分でクリエイティブにできないから流行の後追いばかりしている。また流行が変わったと情報が入れば次の流行に移る。流行とのイタチごっこだ。それがビジネスではないと言ってるわけではないのだ。そういうビジネスでも成り立つ。誰かのクリエイティビティを真似するのは楽だ。自分で考えずに後についていけばいいだけなのだから。失敗だってそこまでないだろう。自ら分かって選択してその輪に入っているのならば、それでビジネスをしているのだから良いのだ。これも1つの方法であり選択だ。その選択をしたものを卑下したり間違っていると感じたりすることは無意味だ。違う道を選択し歩んでいる。ただそれだけだ。

しかし流行の後追いや人のマネをしていたら上限は知れている。本当はもっとできる可能性を秘めているのにもかかわらずその可能性を自ら潰してしまっている。もっと自分らしくクリエイティブに自分を最大限に活かせるはずだ。どちらを選ぶかも自分で考えて答えをだす。そして選択した道を進めば良い。

己のクリエイティビティを解放しよう

最初は分からないことだらけなので調べたり聞いたりして参考にし勉強するのはいいことだ。ただ勉強してそのままをカタチにするのではなく、もっと自分でクリエイティブにやってみてほしい。

創造(クリエイティブ)と聞くとどうしても突発的な一瞬のひらめきと語られることもあるが、クリエイトするということは何か特別なことをしなくたって良いのだ。何をしたいのか自分で考えてカタチにする。クリエイティブというのはその積み重ねなのだ。そしてその積み重ねから生み出されたカタチにオリジナリティというものが出てくる。己のクリエイティビティを解放してもっと自由に発想してクリエイトしてみようじゃないか。一歩一歩道を切り拓いていくのだ。 その選択肢は誰にだって用意されている。

まず今日はこれぎり!